虚ろの輪音

第三部 第二話「たったひとつの言葉」 - 01

GM
 私はその日も、人の命を奪った。
 音もなく忍び寄り、急所を突く。死ななければ、死ぬまで突く。喉を掻っ切る。
 何かを殺す事。それが私が得意な事で、私にはそれしか出来なかった。
 声にならない悲鳴をあげ、目の前の男が絶命する。血が噴き出るが、返り血など気に留める必要は無かった。
 どうせ、誰も私を見てなど居ないのだから。

「さようなら」
 もう何も聞こえない男に短くそう告げる。
 遺体など放置していても構わない。この人気のない路地裏に放っておけばいい。
 いずれ誰かが見つけるだろうが、この男は多くの者から死を望まれていた。どうせ誰も悲しまない。
 いつも通りに仕事を終え、私は踵を返す。ただ一人、私を待っている者の所へ帰る為に。

「……え?」
 私は思わず声を上げた。
 振り返った私の目に、人が映ったのだ。
 今回は“予告”など出していない。出していたとしても、見つかる事など無かったのに。私は咄嗟に先の男を殺した短剣を再び握り締める。
 見つかったのならば、この者も殺すしかない。初めての事態に少しだけ気が動転していたが、私はそう結論づけて一歩を踏み出そうとする。
「お待ちなさい」
 私が今まさに走りだそうとした時、人影は静かに声を発した。
 慌てている様子はなく、切迫した様子もない。恐らくそれは、憐れむような声だった。
「っ……」
 思わず足を止める。その声には、私の中の言い知れぬ感情を呼び起こすのに十分な力を持っていたからだ。
「“気まぐれな死神”ですね。初めまして」
 彼女はこの状況で、ごく普通に日常生活で出逢った相手に対するような挨拶をした。
 そして彼女は、自分の顔を覆っていたフードを下ろす。中からは切れ長の紅い瞳を持った双眸と、流麗な白銀の髪が現れる。
「…………」
 私は息を飲む。目の前の相手を、私は知っている。
「……ルキスラ帝国宰相ベアトリス・エインズレイ」
 どうしてこんな所に? と私は目で問う。相手に飲まれぬよう、殺気だけは放ちながら。
「ご存知でしたか。……申し遅れました。貴女の言う通り、私はルキスラ帝国現皇帝ユリウス・クラウゼ陛下の宰相ベアトリス・エインズレイと申します」
 私の殺気などまったく気にもしていない様子で、彼女は片手を胸に当てて自己紹介をする。
「……それが何の用? 仕事の依頼なら、こんな場面でしないで欲しいわ」
 あくまで強気に発言する。それは間違いなく虚勢だった。
 私は数年振りに恐怖という感情を覚えていた。“死神”が怯える程に、目の前の存在は異質に感じられたのだ。
「仕事とは少々異なります。貴女の実力を見込み、私は貴女に協力を依頼したいのです」
「協力?」
 訳が分からない。その2つの何がどう違うのか。
「ええ。貴女を孤独に陥れたこの世界を“救済”する為の協力者として、です」
「…………」
 目の前の女をきっと睨みつける。
 彼女の言っている事は図星だった。私は確かに、この世界では独りに近い。決して、この時は独りきりでは無かったとは思うけれど。
「世界は悲劇に満ちています。貴女もまた、その被害に遭った1人。私はあらゆる人々をそんな悲劇から救いたいと、そう思っています。私はその手段を持っている。そして、その完成には貴女の協力が必要です」
 気が触れているかのような言動。信じる者が居るはずがない。
 私は「話にならない」とだけ告げて、その場を去ろうとした。
救済の暁には、貴女も“普通”の生活を送る事が出来るでしょう」
「え?」
 彼女の妄言の続きに、私は呆けた顔をする。これもまた、図星だった。
 彼女は、誰も知らない私の本当の望みを知っていた。私の事を理解っていた。
「家族と共に食卓を囲み、友人と何気ない話で談笑し、誰かに虐げられる事のない、不幸とは無縁の生活。協力の対価として、私は貴女にそれを提供しましょう」
「…………」
 頭のおかしい人間だ、という感想は変わらなかった。けれど、見抜かれた事で、ほんの少しだけ彼女の話に興味が湧いた。
 物心ついた時からずっと、私はそれだけを望んでいたのだから。
「後日、ルキスラに来て下さい。そこでより詳しい話をさせていただきましょう」
 私の様子を見て十分な成果だと判断したのか、彼女は一礼すると一瞬にしてその姿を消した。
「あ……」
 私は呆然としたまま、その姿を見送る。酷く動揺していた。
 驚きよりも、期待という名の感情によって。

 後日、私は彼女の元を訪れた。
 そこで彼女の正体、出自、来歴、そして《虚音計画》という彼女が画策していた世界救済の為の計画の話を細かく聞いた。
 聞けば聞く程疑っているような表情になる私に、アレクサンドリアは顔色ひとつ変える事なく、これから起こる事を予言してみせた。
 しばらくして、彼女の予言は全て的中した。いや、彼女の手によってさせられた
〈救世の弔鐘〉の力の一部を使って、彼女は人々を操り、歴史を一つ思い通りに動かしたのだ。
 私は彼女の一字一句と違わずに動く人々を見て、彼女の力を信じる他無かった。
 それと同時に、彼女の“聖女”としての人柄も。
 幼馴染以外で、私に親しく接してくれた相手は初めてだった。それも、私の正体を知った上で、だ。
 次第に、計画の話以外にも、色々な事を話すようになった。
 きっと、ごく普通の家庭に生まれ、姉が居ればそんな関係だったろう。

 私が彼女の計画に協力を申し出るのに、其処まで長い時間は掛からなかった。
 でも、私一人だけじゃなく、もう一人、一緒に彼女に協力をさせたいと思う人が居た。
 話せば、きっと彼も賛同してくれるから。

 そして、後に《蒼銀戦役》と呼ばれる帝国の内乱を終わらせる為に、アレクサンドリアやユリウス皇帝から請けた依頼をこなす為に、私は幼馴染と共にとある帝国貴族の家を訪れていた。
 終わらせると言っても、そもそもその発端すら、文字通り、アレクサンドリアたちの手の平の上で操られているだけに過ぎなかったのだが。
 その日は珍しく、幼馴染にも付き合わせていた。簡単な仕事だったし、仕事を終えてすぐ、計画について話すつもりだったからだ。
 案の定、殺し(しごと)は滞り無く終わった。寝静まった頃を狙って、私腹を肥やすだけの愚かな貴族夫婦を殺害する。どうせ、誰も悲しまない。
 彼らを殺した後は、家探しをする。内乱において皇帝派を優位に立たせる為の証拠を手に入れる為に。勿論、それも予め筋書きに記されていたものだ。
 隈無く家を探し、地下の物置に差し掛かる。
 そこで、私は見つけてしまった。
 傷だらけで蹲る、角の生えた少女を。
「……ぁ……」
 意識はあるらしい。彼女は怯えたような表情で私を見る。怯えていたのは、私に対してではなかったかも知れないが。
 私は無言で短剣を握る。私と同じような境遇のこの少女は、きっと私と同じような道しか歩めない。
 だから、今の内に楽にしてあげよう。次に生まれて来る時は、世界はきっと良くなっているはずだから。
 そう心に決めて、彼女に近付こうとした時。
「ルナ?」
 別の部屋を探索していた幼馴染が、物置へと入って来る。私は足を止めて振り向く。
「子供よ。私たちと同じナイトメア」
 顎で少女を示すと、彼は少女へゆっくりと近付いていった。
 かつての自分や私を思い出しているのか、哀れんでいるような表情だった。
 私も似た思いを抱いた。だから、彼も同じ結論に達するはずだった。
「……ルナ」
 震えながら蹲る少女の傍にしゃがみ込んで、彼は私の名を呼ぶ。
「何?」
 楽にしてあげよう、私はその言葉を待っていた。
 けれど。
この子を、保護したい」
 それは、紛れもなく“普通の人間”の発想だった。
 私の中で、何かが音を立てて崩れた気がした。
 崩れた心の奥底から湧き上がるのは、嫉妬。
 私が平穏に暮らしている人間たちに抱く、どうしようもなく醜く、拭いようのない感情。
 私はただ、目の前の子供を殺す事しか考えられなかったのに、あろうことか彼は、保護を提案した。
 同じ環境で過ごして来たはずなのに、私と彼は、これ程までに違った。
 私はやはり、“狂った劣等品(ルナティア)”でしかないのだ。
「…………」
 私は無言で、彼らの前に歩み寄り、入手した必要な証拠を捨てるようにその場に落とした。
 そして、彼らに背を向ける。
「ルナ……」
 彼は困ったような表情で私を見る。
 ずっと私に付いて来ていたのだから、どうすればいいのか分からないのだろう。
「それを、皇帝派に持って行きなさい。それから先は、勝手にすればいい」
 それだけを告げると、私はその場を後にした。
 彼の縋るような声にも、答える事は出来なかった。

 後に、私は一人でアレクサンドリアの元を訪れた。
「……一人、ですか」
 アレクサンドリアは半ば私に何があったかを悟っているように、静かに問う。
 私はそれに黙って頷いた。
「……そうですか。よろしいのですね?」
 協力への、最終確認。
 これに肯んずれば、私は彼女と契約をし、対価と引き換えに“断罪者”としての力を得る。
 そして、世界救済が果たされた後の“普通の生活”の保証も。
「いいわ」
 そう強く言い切った。が、心の中にはひとつ、もやもやとしたものがあった。
「何かあるのならば、遠慮なく言ってください。貴女には無理強いはしない。そういう約束です」
「……ん」
 やはり彼女には見抜かれていた。
 彼女に見抜かれた事で、私は自身の心残りをはっきりと悟り、彼女に告げる事を決める。
「計画には協力する。ただし、条件があるわ


 私は、世界救済の音が降り注ぐ中で、独り灰色の空を見上げていた。
 この音が世界中に響き渡れば、私はそこでようやく独りでは無くなる。
 しかし、この虚ろな世界に抗う者たちが居る。
 彼らの心が折れるまでは、世界救済は完遂される事は無く、私は孤独だ。
 だから、私は彼ら異端者を断罪しなければならない。
 けれど私の心は揺れ動いていた。白と黒、どちらとも付かないこの灰色の景色のように。
 私はやはり、心の弱い人間だ。“狂った劣等品”と呼ばれても、仕方が無い。
 じきに、彼らが来るだろう。
 心の中で自嘲しながら、私は鎌を手に取る。契約の対価(左眼)は、酷く痛んでいた。